2017年9月30日食環教講演会 牛島定信理事長『変わりゆく子どもたちの成育環境』全内容

以下は2017年9月30日におこなわれた食環教講演会『変わりゆく子どもたちの成育環境』にて、当会理事長牛島定信が語った全内容です。

・インターネットへの依存による考え方の変化

「僕は引きこもりじゃないですか」

こう言ってやってくる患者が最近増えています。自分で自分のことを診察してしまうんですね。はじめてそういう人が来たときには驚きました。こういう人を解離性パーソナリティ障害といいます。

普通は学校で友達関係を作って行く、年を取って大人になって行く。こんなことで困っているとか言われればそれに対して精神科医は診断しますけど、自分で診断してきて「きっとわたしはこうである」と自分でその結果を医者に言う。社会に認知されている病名で概念化すればそれで終わり。まさにこれはコンピューターの世界に生きていると言っていいでしょう。その人が言いました。小学校の頃から学校に行く行かないで争って、お兄ちゃんに黙らされる。そういう家庭環境があって、それを友達に話したら「それは虐待じゃないの」と言われたと。それでああそうか、これは虐待かと。すると医者のところに来て、「わたしは虐待を受けた子どもである」と宣言し、それで治療してくれというんですね。確かに学校に行くのに苦労していて、それが母親に影響し、父と兄も何か言ってきて困る、どうにかしてくれという心配じゃない。わたしはこうだから精神病じゃないかと本人から言ってくるんですね。

精神病院というのは、昔ながらの統合失調症等の治療のための病院だと若々しい女の子の入院できるような環境ではないんです。ベッドの上で縛られたりするんです。その恐れを知らないですね。そこに入院させてくれといわれてこちらの方が驚いちゃう。そこに虐待という言葉が大きく働いているんですね。いま世の中では虐待虐待と大騒ぎです。

それともうひとりは自分はピアニストになりたいというんですけど、この子も学校でうまくいかない。ついに高校も卒業が見えてきたんだけど、半年以上学校を休んでいるという。このままだと高校卒業できそうにない。そこでいろいろと考えあぐねて、どこかで指導されたのかもしれないけれど、このごろ通信制高校というのがあるんですね。そこでわたしは通信制高校に行きたいというのです。ところがこの子は受診するのに大変なのです。クリニックの外まで母とふたりで来ているけど、一緒に受診するのか、ひとりで受診した方がいいのかどうかもめているって言うんですね。それでよく話し合って来てくれっていったら一人で来たんです。お母さんは何て言っているのって聞いたら、わかりませんっていうんですね。それでお母さんにあとで聞きますと憤然としているんです。通信制高校の話があるみたいですねって母親に聞くと、お母さんはわたしを怒鳴りつけるようにして、「先生は娘を通信制高校にやれっていうんですか」っていうんですよ。相手をするのに困るくらい叱りつけられました。学校に行く行かないと言うレベルを超えて、感情的な喧嘩になっているんですね。それでその通信制高校というのも、似たような人が集まりますので虐待や引きこもりなどの巣窟のようになっている。大人の世界で使っている言葉を子どもが使って自分のことを理解した気になっている。実際に虐待を受けたり、引きこもりだったりするというレベルより軽度のものでも、「虐待を受けたから」とか「引きこもりだから」と言って、そのような状態になっていってしまっている。言葉によって自分の状態を決めつけてしまう。最近気付きました。まだこんなことを言っている人はいませんけど。

小学校中学校高校くらいの青年たちが訴える問題行動というのは変わりました。わたしが精神科の医師になったのは1963年です。54年ほどになります。だからいま中学高校の生徒、子どもを連れて来る親御さんの歳より、わたしの医者の経歴の方が長いんですね。わたしが医者になってから生まれた方がいま親になっている。だからわたしの時間的視点は、親御さんの一生より長いので、きっと親御さんが知らないことをわたしは知っているんです。年を取るとはそういうことです。

登校拒否という言葉が出てきたのは1960年代です。学校に行けない、行きたがらない。当時学校に行けないというのは、いじめられたのではなく、適応できなかったんです。いまと理由がちょっと違うんです。恥をかいて行けなくなったとか、面目ないとか、申し訳ないとか、そういう悩みが多かったんです。その頃、わたしたちはそういう子どもたちを連れて思春期キャンプに連れて行ったものでした。そうすると一週間ばかりみんなと一緒に楽しんでいると、すっかり顔色まで変わって、それでだいたいよくなったものです。1960年代前半の子どもたちはそれでよかった。頭はいいし切れるんだけど、不器用でした。マッチで火をつけることができないとか、そういう幼さがあって驚いたんですけど、とりあえず優秀でした。でも現実的なことがあまりできない子どもたちという印象がありました。そういう子どもたちにがんばって学校に行こうなんて言うと、大変な状態がうまれました。登校刺激といわれ、それはいけないということになっていました。

ところが1980年、アメリカに新しい診断基準ができて、全世界にあっと言う間に広がった。精神医学改革のようなことが起きた時代。このとき、境界性パーソナリティ障害という病名がはじめてできました。それからその症状を持つ人がわーっとでてきました。どういう人たちかというと、ちょっとしたことで憂鬱になって死にたくなって手首を切るような若い女の子です。それから学校に行けなくて家に籠っている子どもたちで、ちょっとした刺激で「そんなことじゃ駄目じゃない」と言われたぐらいで家庭内暴力を振るう青年とか、そういう人たちが多くなってきました。そういう人たちというのは、学校に行けないとか、社会に出て行けないとかいうことが密かに気になってはいるんです。しかしそれをいろいろと気にすることはなかなかもう負担になってできない。それでどうするかというと、お父さんがどうした、お母さんがどう言ったとかって、親との問題にすり替えるんですね。お母さんがそんなこと言うから僕は憂鬱になるとか、そういうことのせいにしているうちに、お母さんの育て方が悪かったという問題にしてしまう。そう言われると母親というものは必ずしも自分に自信がある訳ではないですから、少し自分の責任を感じるんですね。そうするとそれに負けてはならないので反論するとそこで喧嘩になる。そういう症状の境界性パーソナリティ障害でした。この治療はどうするかというと、親子喧嘩なんてつまらないことしてないで、もっとやりたいことをしなさいって社会の適応の方に目を向けてやるとだいたい治っていった。だいたいこういう人というのは、現代では十年十五年はあっと言う間にすぎてしまうって言ってますが、1980年代頃までは一年程度でよくなりました。

・レッテル貼りは父親不在から

ところが先ほど言ったように「わたしは虐待じゃないか、引きこもりじゃないか」と言ってくる人が増え、学校に行けないのは何が問題かと問うのではなく、病名を明確にしてそれで終わりみたいな人が増えてきた。見るからにコンピューターの割り出した情報に救いを求めている。そういうところがある。こういう人たちは問題に直面させられると非常に激しい怒りを爆発させるんですね。こういう人たちは思春期の過ごし方を知らないのでキャンプに行って一緒に過ごすと少し落ち着きます。それでも難しい子もいます。この頃の家族の特徴は、次第次第に家庭の中の父親の力というのがなくなっていくんですね。いまではすっかりなくなってしまったようです。そんなときわたしが見つけ出したのは、細かく患者さんの話を聞いているとですね、父親の再発見というのがありました。

わたしが一番驚いたのはですね、かつて中曽根さんが行政企画庁長官のとき、そこにいた女の子がお偉いさん方をあごで使うような子だったんですけど、それが拒食症になって九州に戻ってきてわたしの治療を受けたんです。その東大出身の女の子が治療の終わり頃になって堰切ったようにわたしに話しかけてきて「先生、わたしには父親がいるんだということを発見しました」っていうんですよ。びっくりしました。それまでお父さんとというのはつまらん人で、たいしたことないと思っていた。それは多分にお母さんの影響を受けていた。それがお父さんがちゃんとしていることを発見すると、それが原因でふっと元気になったというんです。それで仲間の中に入れたという経験があったというんですね。ところが1980年代の境界性パーソナリティ障害では、そういうレベルではどうにもならなくなってくるんです。どういうことがあるかというと、親子関係にすり替えられているのでなかなか難しいんですけど、欧米では弁証法的認知行動という難しい名があります。ようするに自分が経験している感情を他人に伝えるためには、こういうやり方がいいねとか教えるんです。自分の中で経験していることをよく自覚させるということです。手の込んだやり方ではあります。厚生労働省の科学研究班で班を組んでやったのは、そんな難しいことをしなくても、いま生きていて起きている問題にきちんと向き合えば解決するということです。

たとえば彼氏とのあいだに問題があって、それを両親が知ることで問題化したことは、彼氏とのことを解決すれば解決してしまうということです。

親との関係を主軸に置き子どもの解決をはかるんではなく、自分に軸を置いた思春期の問題の解決法があるんだと言うことがわかってきたのです。それが20世紀の後半、2000年前後まではだいたいこういったやり方で解決していくんですね。ところがこのごろのインターネットで解答を求めるような子どもはそう簡単に行かなくなっています。

・子どもになることの大切さ

トイザらスが経営破綻しそうです。アメリカとカナダではその理由をインターネットの登場でアマゾンその他にやられたって報道してますけど、そうではないと思います。

おそらく子どもたちが、昔みたいにお人形さんとか熊さんとか、買ってもらっても喜ぶような時代ではなく、むしろスマホをもらった方がよっぽどうれしいって時代になってきているということだと思います。トイザらスの流通のやり方が悪いなんて言い方をしているんだけど、子どもたち自身がおもちゃの楽しみをなくしてきているのだと思います。

先日、9月19日に高校生が父親を殺害したという話が新聞やNHKに出ていました。子どもの世界には生きていられなくなっている気がします。そういう子どもたちはどうするかというと、最近埼玉辺りでよくいわれるのですが、フリースペースを使うんですね。やりたいことを自由にやらせる。教えるんじゃなくて。フリースクールから出てきたフリースペースという考え方です。これは端的にいうと子どもの経験をさせるんです。もう一度子どもになって子どもの経験をさせる。「Do Child」です。このように治療のやり方も変わってきています。したがっていままでのように思春期に焦点を当てるよりも、子どもの頃に本当に子どもをやっていない。遊んでいない。そういう視点が治療に必要とされています。これが今日の話の骨格です。

・抑圧してしまった子どもの心

知恵はついてきているけど、気持ちが非常に幼い子がいます。どういうことかというと、お母さんやおもちゃがまだ自分の外側にあるものだと認識していないんです。最近の母親は過保護ですからなんでもしてあげようとする。すると子どもにとってはなんでも思ったことがかなえられるので、母親と自分とのあいだに境界線がないのです。普通は離乳期くらいになると、なんとなく区別がついてくる。でもまだお母さんがいなくなるとか、怒られたりするとかすると、分離不安を起こしやすい。そういう時期がやってくるんですね。ここらあたりで一応お母さんが自分の外にいる、おもちゃは自分ではないということがわかってくる。わかっちゃいるけど、自分の一部という風に思いがちなところがある状態です。この分離の過程をいまの子どもはなかなか持てないんです。

ウィニコットというひとが、幼児とおもちゃの関係について過渡的対象といいました。おもちゃはお母さんが与えたものですけど、それはわかっているんです。でもおもちゃというのは自分のものだし、誰にもやらないですね。そして自分が作ったものだという錯覚さえもっている。こういう関係がおもちゃとの関係。いまの子どもはこれが十分に経験されてないことが多いのです。こういう経験が足りないと大人になってどういう人になるかというと、自己愛人間ができるというんです。自己愛人間というのは、このごろ流行ってきましたね。ナルシスト人間。わがままで自己中心的とされる人格のことで、誇大的な錯覚を持っていて、自分は何でもできると思っている。そして人からほめられたり、大事にされることを求めながら、一方では人を無視するという心理状態です。これが思春期になってくると困った人間になってくるんです。この関係がどこで出て来るかというと、おもちゃというものは自分のものであり、自分が作ったものだと言う感覚がときどき出て来る。ここで仮におもちゃが自分に反するようなことをすると非常な怒りが湧いて出てくるんです。これはお母さんとのある関係の場面になるとよく出てきます。これを自己愛的な怒りといいます。健康な子どもの場合は、切り替えが効くんですね。これはおもちゃの世界だからと考えられるけど、しかし、なんやかんやうまくいかないと腹をたてるものですけど、そのことを次第に学んでいく。必ずしも自分の思う通りには行かないんだというのを経験するのと同時におかあさんというのは別物だし、場合によっては自分とは反する行動もするんだと学ぶんですね。これで脱錯覚がおこなわれるんです。そうすることで子どもの精神は発達していく。ところが最近は、この辺りの発達がなかなか難しくなってきている。それがコンピューター社会と結びついているのではないかというのがわたしの論です。

なぜこのようになってきたかというと、2000年頃作った図ですが、家族構造が20世紀の後半に急速に変わってきたんですね。たとえば、登校拒否の子どもが出てきたとき、教育ママというのがでてきて、「お父さんのようにだけはなってほしくない」と当時のお母さんは言っていたんですね。だから60年代の30〜40ですから、いま90ないしは100に近い、お父さんお母さんの時代ですね。この頃にマイホーム主義というのが出てきました。それは何かというと、お父さんは仕事仕事で、会社ばかりに首突っ込んでいるんだけど、家庭に帰って来ると無視されるよって、だからもうちょっと大事にしましょうって、たいがいこの頃に子どもが描くのは、親父はそとで酒飲んで浮かれているか、仕事に熱中しているかで、家に帰ってきても、隅っこで、ベッドの上で寝ていて、子どもとお母さんが中心でにぎやかな世界ができているという家庭像というのが非常に増えたんですね。

これが実は60年代であると。それがどんどん進んでいきます。ニューファミリーなる言葉がでてきます。ニューファミリーというのは男も女も一緒ということですね。夫と妻の関係を否定しようというものです。したがって男子厨房に立つなんてことはあり得ないと思われていたことが、それを否定する。したがって、九州にいる親父が、息子が東京で結婚して、スーパーで買い物して帰ってきたのを見て腰を抜かしたという話もございます。だいたい「いい男が何を考えているのか!」って、怒った親父をわたしは知っておりますけれども、そういう時代。

そのうち80年代になってくると、シングルマザーというのがでてきました。基本的には結婚せずに子どもができた家庭ですね。しかし現実にはお父さんの姿が家庭からはまったくいなくなってしまったという、そういうふうな印象を与えたものでした。

すると90年代には夫婦別姓というのが出てきます。それはさすがに共産党が反対して今日に至りますけど、70年代にも実は一度法制化されようとしていました。そのときの官僚さんをわたしは知っております。そのときは駄目になりましたけど、その空気が再び出て参りました。そして2000年になってくるとイクメンというのが出てくるんですね。これは家の中で父親の権威が急速に落ちていくということです。従って家族構造が変わってきた。つまり子どもが育つ家庭環境が大きく変わってきた。

いまどんなことになっているのかというと、一番話題になるのは児童虐待であります。虐待と言えば、父親が子どもに暴力を振るう、ないしは母親が暴力を振るうという、これが虐待という風に言われたんですけど、確かにそれも虐待のひとつではある。でもそんなに多くはないんですね。日本にはあまりなくて、人によっては「日本にもあるんだ」というんですけど、アメリカによくあるのは性的虐待。小学校高学年から中学生になったくらいに、父親が娘に性的関係を強要するということです。実際の性行為だけではなくて、触るとか触らないとかそういうレベルの話も含みますけど、それが虐待と言われてきました。

もうひとつは父親が母親を子どもの目の前で罵倒する、殴るというのも虐待なんですね。虐待という言葉の意味には「(残酷な行為を)目撃させる」という意味もあるんです。PTSDという言葉があります。戦争に行って、同僚が目の前で死んでいく。または屍を踏んでいかなければならないというのが心に非常な傷として残る。だから目の前で何かするというのも虐待なんです。またはDVですね。それからもうひとつはネグレクトです。寝るところ、食事、教育の機会を与えないというのもひとつの虐待です。こういうことが話題になっている。

では昔は全くなかったのかと言えば、親父がおふくろを殴るというのは我々の時代には当然のことのようにあってですね、それは親父に言わせれば、家庭に入ってきた女のいうことばかり聞いていたら家のまとまりがなくなるというのが基本的な考え方としてあった訳ですから、少しでも女性が反抗の態度を取ったら暴力を振るうというのは当然の態度であるというのが、明治・大正・昭和の頃には普通にあったんですね。しかし女性は黙っているのが鉄則のような教えがあったので外には出なかった。いまは奥さんに暴力を振るうというのは、アルコール依存症の人が奥さんに暴力を振るうというのがありますけど、このごろではそういうことは絶対にいけないっていうことになってきています。あってはならない。あったら女性は主張しなければならないというふうになってきましたから、これがひとつ大きな問題になってきました。

心理的虐待、これが多いと言いますが、子どもの目の前で配偶者に暴力を振るう。大声で恐怖に陥れる。無視する。著しく兄弟間の差別をする。自尊心を傷つける言葉を投げつける。そういったことが心理的虐待です。これは新聞がいいたてるようになりました。したがっていままさに心理学の勉強をしている人たちから見ると、家庭というものはそういうものだという言い方をします。したがって、児童相談所だけではなく、心理相談所なんかでもすぐに虐待という言葉がでてきます。これもちょっと行き過ぎじゃないかという気がするんだけど、しかし、こういう言葉も入って来るんですね。

モラハラ妻。夫が稼いできたお金を全部独り占めして、夫には小額のお小遣いしかあげない。それでいて自分がパートで稼いだお金はすべて自分が使う。曰く「あなたの稼ぎが悪い」という割に自分はブランドものを身につけたり、高級ホテルのランチなんかに行く。これは経済的な虐待というそうです。それからちょっとした頼み事をしただけで自分は家事で忙しいのにあんたは何を考えているのよって騒ぎ立てる。あなたはモラハラ夫だと騒ぐモラハラ妻がいるということですね。それから夫が離婚したいというと、わたしは死んでやると言って、マンションのベランダから飛び降りようとする。こういう例がいくつもあります。

最近では、境界性パーソナリティ障害といわれていた人たちが家庭における夫に対する暴力ですね。親子の問題ではなく、結婚したあとに配偶者に暴力を振るう女性が結構増えています。物理的暴力もありますけど、主に暴言ですね。それから「死んでやる」という脅迫。そういうようなことがよく見られるようになりました。こないだ新聞を見ていたら2011年から16年の五年間のあいだに妻の暴力が10倍に増えたそうです。新聞報道は少しあおり立てることがありますから、字句通りに取ってはいけませんけど、そういう例が精神科ではちらほらしてきたんですね。

もう一方でこの前のNHKの番組ですけど、このごろ働き方改革で、会社は定刻に社員を返すようになったという。そうすると男性も五時、六時に帰れるようになった。ところがなかなか家に帰れない男性が増えているということをやっていました。仕方ないから無料ワイファイが使える喫茶店に入って、しばらくゲームを楽しんだあとは、バッティングセンターに行って、気持ちよく汗を流して、八時過ぎになると帰るという、そういうことなんですね。それで残業だと言って帰るんだけど、本人に言わせると、僕が早く帰ると妻に夕食の支度を急がせることになるからだというんです。それで家事を手伝おうとすると「あんた下手ね」なんて言われるので、亭主の家庭における立場が非常に低下している。こういうふうな家族像が盛んに描き出されるようになってきた。おそらく極端な例だと思いますけど、そういうふうな方向に行くんですね。そういうことになってくると、ここには何があるのか。女性が強くなってきて、あれはけしからんって言ったってどうにもならないのであります。これは古い時代に戻った方がいいと言っているのではありません。

・新自由主義の影響

エリクソンという先生が1960年頃から若者の成長過程が急速に変わってきたといってました。このことを言っているんですね。若い成人、ヤングアダルトは、互いの関係に道義的な強い結びつきを認めて結婚に至る。普通に男と女との出会いというのは非常に難しい。ご承知のように男女の恋愛から結婚に至るまでの紆余曲折というのは大変なものです。昔からそういう複雑な恋愛話が書かれた小説がはやったものです。ところがこのごろ恋愛というのをまったくせず、形だけで行くんですね。合コン行ったらどうすればいいというノウハウがインターネットに書かれているそうですね。まずは連絡先を聞けとかですね、次に何しろとかですね、そういうことで形の上では結婚するんですけど、形の上の操作しか知らない訳ですから、結婚したあとうまくいかない。

たとえば夫婦がわたしのところに面接に来るのに、お互いこっそり来るんです。ところが話を聞いただけで満足して帰る。本人のことは何も解決しなくても気分的によくなればいいようです。ふたりのあいだにある問題をどう解決するかというあたりがとても難しい。旦那さんが奥さんに抱きついても夫婦ですからそれでよかったと思うんです。夫婦間のしこりもそれで解決していたと思います。ところが全然解決しないまま抱きついてきた旦那に対して激しい怒りをもってその相談に奥さんがやってくることがあります。このように夫婦関係が未熟なままちょっと何かがあればすぐに離婚してしまう。ところがシングルマザーになると、しばらくして別の男性がやってきます。そうなると子どもと母親のあいだには非常な焼きもちの感情がうまれてくるんです。その感情を大人としてきちんと処理できればいいんです。それが処理できずに結局虐待して、ときに死に至ったというニュースが出てくるのは、あれは男が悪いから誰が悪いからというのではなくて、全然大人になりきってない大人たちがたくさんいるという現実がそうさせているんだと思います。そのあいだを縫って子どもたちは育っていかなければならない。

こんなことになった背景は何かというと、いわゆる新自由主義といわれる時代が来たということです。

それは何かというとですね、19世紀、専制君主の時代、殿様には絶対服従というのがその頃の時代です。その頃には神がいました。ところが20世紀になってニーチェは神は死んだと言いました。ニーチェが死んだのは1900年です。そのときドイツの若者に与えた影響は多大ものがあると言われていますけど、その頃から神は死んで、自由平等が叫ばれるようになりました。資本家と労働者も平等だというのですね。労働者も資本家のいう通りになる必要はないと主張した。我々の60年代の安保闘争の頃の主張です。つまり神が死んだあと何が出てきたかというと、一般人、つまり普通の親父たちが出てきたんですね。非常に大事にされるようになってきたんだけれども、これが1980年から90年代にはその価値が下落する。2000年頃には新自由主義だというんですけど、その頃には多様性が重んじられるようになる。そして同性愛とか、やくざとか、社会から排除されていた人たちも救って、われわれはやっていくと。つまりそれまでは排除する人たちがいた。以前は一部の特権的な人たちだけの自由だったと。それをたださなければならないというのが今の世の中に出てきたんですね。精神障害者を障害者と呼んではいけないとか、そういうことですね。LGBTとか、そういう人たちも社会的にきちんと守られなければならないとか。ありとあらゆるひとが平等でなければならないと言われるようになってきましたね。精神障害者も排除してはいけないと。

性的マイノリティと言われる人も社会で手厚く守らなければならないというわけですね。ありとあらゆる人が平等でなればならないといわれるようになった。

それからもうひとつは科学の急速な進歩と情報技術の急速な進歩によって、出会いが人工知能で起きるようになった。

画一化された商品が簡単に作られるようになって商品化されるようになった。一番いい例がコンビニですね。あといい例がスーパー。われわれが学生の頃はものがなくて困ったものであります。八百屋にいって自分で野菜を買って料理する訳にはいかないんですね。いまはもうお店に寄れば出来上がった食べ物が簡単に手に入る。そういうことに依存するようになってしまった。自分で何かを得て、自分で何かを作るのではなく、受け身的な人生を強いられている。

それと同時に忘れてはならないのは監視カメラやデータベースですね。そういうセキュリティシステムが出来上がってしまっている。どんな情報でもボタン一つ押せばアフリカの末端まで届くようになっている。

こういうことがあって、家族構造が大人になっても子どもができずにいるということですね。こういう時代であることを知っておかなければならないということ。

こういう時代的背景の中で、母親や父親がきちんと子どもたちを守ってあげないとどうなるかというとですね、これはわたしの論です。

アダルトチルドレンですね。これはアルコール依存症の家庭の子どものことを言ったものです。酒飲んで大暴れして奥さんはじっと耐えている。いよいよこの家はどうなるかしらと心配している三つの子どもがいる。親は自分の家庭や家がどうなるかを考える余裕がない。親に変わって子どもが家の将来を考えるようになるというものがアダルトチルドレンですね。このように未熟な親のために子どもたちは子どもの頃から大人にさせられてしまいます。子どもの感覚のまま大人になることで、家庭全体がおもちゃと区別できず、全部自分が作ったものという感覚になってしまうのです。

おもちゃをおもちゃとして見る生き生きとした経験をせずに大人になってしまう。妙に若年寄のような子どもにさせられてしまうという構図があるのではないでしょうか。これをわたしは患者から教えられたのです。だから子どもにもう一度子どもの経験をさせるというのが大事になってくる。いわゆるフリースペースが必要になって来るという考えになるんですけど、アダルトチルドレンというのがこれから意外と大事になって来ると思います。それで今の子どもたちの横の関係が作れなくなったというんですね。勝ったか負けたかしかわからない。自分がやるかやられるかしかないのでいじめが非常に多くなる。

・表面だけの関係

いまどういうことが起こっているのかというと、学校ではいじめがあるのでとにかく面白くない。したがって付き合うにしても表面上だけ。ではどこに生き甲斐を求めているかと言えば、地域の野球とかサッカーとか、ボーイスカウトとか、集団の活動ですね。

こういう話を秋田でしていたとき、うちではこんなことをしていすますといわれました。農家に一緒に働かせていますとか。そこで、今より健康な子どもたちはそのような場で横の関係を経験するようになっている。それは非常に大事だと申し上げてきました。これもあとで少し問題化してきている訳です。

もうひとつは、子どもの関係がうまくいかないので、高校にいられず、自分の居場所がなくなってしまったということがある。幸いそこは国際的な環境を作るので、わたしの経験から海外に行くのもいいよと言ったら、カナダに行って急に元気になった。それでそのままそこの大学に行って、先日挨拶に来ました。それはそれは立派な女性に育ちました。一流の企業に就職して、国際的な感覚を身につけて、これから活躍しそうです。彼女を救ったのは誰かというと、18で向こうに行ったら、20、30の人たちが同じ教室にいたそうで、そういう人たちと肩を並べることが非常に楽といってました。日本では女の子だけ集まるといじめがあってとてもじゃないけどいられないといいます。こういう抜け道がある。いじめからの抜け道。

いま、同性同年輩の集団はないのでしょうか? たとえばギャングエイジというんですね。同性の同世代で集まり始める。それから異性関係ができ始める。大人がからんだ同世代の集団しか体験しないものだから、自分たちだけでそのような集団を作ることないんですね。そういう意味で大人になれてない。

・横の関係を作る

ある大学の卒業の会で修士課程の女の子が「わたしがこの二年間に得たものは仲間です」というんですね。そしたら次から次へとみんな仲間仲間というんです。それで「仰げば尊し」というように、そういう恩はないのかとわたしがいいましたら、みんなげらげら笑っていました。時間と労力を使って修士論文の面倒を見たんですけどね。感謝の念がない訳ではないけど、そのときの仲間は非常に大事だというんですね。そういうことかと思っていたら、ちょうどWBCのチームが優勝しました。そのとき気がつきました。

星野監督が豪腕で連れて行ったらことごとく負けてしまって、どうにもならなかったですね。その次にWBCワールドクラシックベースボールですか。それに誰を監督にするかとなりましたけど、ナベツネさんが「原くんぐらいがいいんじゃないの」といった。原くんといったら当時一番評判が悪かった。人間として未熟、野球人として未熟とか、そういう悪い噂しかなかった。大丈夫かしらと危惧していた人が多かったのですけど、行ったら優勝しちゃった。それがよく見ていると、イチローくんを中心にチームがまとまってしまったと。このまとまったのがよかったんじゃないかという人がいましたね。確かにその証明がFIFAワールドカップでした。

岡田監督がわーっと言っているとき、ひとつも練習試合で勝てなかった。前の晩に中澤と闘莉王と長谷部が三人集まって、監督はうるさいだけだ、我々でなんとかしようと話し合ったというんですね。それでベストエイトになった。帰ってきたとき選手たちはもう一度このチームで試合がしたいとみんな口を揃えたように言った。それでいろいろ何かあったなと調べると、三人が集まった話が浮上しました。そういうことだろうと、そしたらご承知のようにナデシコジャパンがでてきました。仲間とか団結とか、そういうことです。

ザッケローニ監督が来たときはみんなあがめ奉っていたけど、あちこちで僕はいいました。彼らは絶対負けるって。ザッケローニをあまり持ち上げるなと。結局見るもあわれな結末で、横の関係が強いときほど、力を発揮することがよくわかりました。いろいろトレーニングして、科学的には強くなっても、結局力を出すのは友達、横のつながりができたとき。わたしはそちらの方が大事だと思う。二十代後半から三十代にこういうつながりができる。

わたしがこういう話をすると、先生はいくつになると大人になると思うのですかと質問されるけど、仕方ないから四十と答えています。四十は癌年齢ですよね。自分のことを少しは考えるようになる。これが正しいと思うのは、最近、人生百年というようになりました。昔は人生五十年だったから二十四歳までに大人にならないと格好がつかなかったんですね。ですから人生が百年ならば、五十までに大人になればいいんじゃないかって。あんまり早く大人になると損をするぞって感じがします。そういう時代を迎えているということであります。したがってわたしが申し上げたいのは、何も昔のようにきちんと早く大人になれということではなく、時代を考え、時代にあった大人のなり方というものがあるんだということです。したがって家庭の中で非常に未熟な夫婦というものがいるんだけど、それはそれとして、社会全体として、未熟な夫婦も育てるような仕組みがあると、もう少し成長の仕方も変わってくるんじゃないかという気がします。

・子どものうちからエリートを目指すこと

ひとつ考えていただきたいのは、スポーツクラブができるようになりまして、それで近くの公園で野球チームがありまして、その監督さんと仲良くなったりしたんですけど、見ているとエリートを目指す集団になってしまっているんです。小学校の男の子が鬱病になったそうです。サッカーにはサッカーセレクトというものがあるそうです。この集団に入るとプロへの道が開けると。そういうことにお母さんが非常に熱心ですね。目標はプロの選手。だからプロの選手にするためにサッカーはサッカーだけ、野球は野球だけ、卓球なら卓球だけを子どもに教える。もともとは遊びのため、世間を知るためのものだったのが、儲けるための道具になってしまった。危険な気がしますね。浅田麻央とか藤井聡太とか出てきましたけど、そのようにしてスターに成長する人間もいるんですね。昔は一芸に秀でるものは万能に通じるといって、ひとつ秀でているとその人は人格者であるという感じがありましたけど、いまはこんなこともあるんです。

ナルシストという人たちは、自分が偉くて自己中心で、ある世界に入ると熱中するという特色があるんです。ある狭い範囲だと特別な能力を発揮する人になってくる。そのなかにスポーツ選手とか、芸能人とか結構いるものなんです。そういう人がときどき問題を起こします。自分の付き人を殴るとか、罵倒するとか、ものみたいにしか扱わないとか、そういう人に限って魅力のある人だったりするんです。こういうことをひとつ考えておかねばならない気がします。

幼稚園の頃からいじめられてどうにもならいという子が幼稚園でも大変、中学校でも大変ということですが、それでもちゃんと医者になっているんです。でもものの役には立たない。わたしのところにも十人くらい来てますけど、やっぱり変わっているんですね。こういう人たちの中には非常な天才的な人もいるんです。チャイコフスキーの音楽を聴いたらピアノの練習も何もしたことがないのにちゃんと弾けたりするんですね。それとかですね、三ヶ月もリンガフォンのテープを聴けば英語がしゃべれてちゃんと留学してくるんですね。ある人は三ヶ月ほど英語勉強して、スタンフォード大学に行って留学して、きれいな英国女性を妻にして帰ってきたとかね。日本に帰ってきて暮らしていたら夫婦仲がうまくいかんとわたしのところに相談に来たりしてね。こんなのは非常に特殊な能力。これはスポーツにしろ芸能界にしろ、特殊な能力を発揮する人たちというのは、アスペルガーのなかに必ずいます。それからノーベル賞受賞者の中にも必ず何人かはいるんですね。こういうふうに非常に天才的な能力を発揮する。そういうひとたちは一種の脳の病気だと言われていますけど、自己愛の病気であることは間違いないんですね。こういう人の中に、自己愛的ナルシストみたいなのができて、そういう人たちが特異な才能を発揮して、世の中をびっくりさせるということがしばしば起きる。有能なスポーツ選手、それから芸能界など、非常に秀でた人はアスペルガーだとか、ナルシストとか、そういう人たちが最近は簡単に表に出やすいんだけれど、非常に幅の狭い、ひとつだけ特異な能力を発揮する人間が現れるというのも、時代の背景、新自由主義とグローバリゼーションですね。それからその下にある家族の問題。子どもの発達過程と密接に関係しているのではないかという印象を持っています。

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